2016年5月9日月曜日

【戦後70年核物理学の陰影】悲運の加速器・海底に沈む「米国の誤謬、もはや絶望」

2015.8.10 09:02更新 http://www.sankei.com/life/news/150810/lif1508100015-n1.html

理研・仁科博士

 終戦から3カ月が過ぎた昭和20年11月24日の朝。東京・駒込の理化学研究所に突然、2台のブルドーザーがやってきて、門や建物の塀を壊し始めた。
 「全てのデータを押収し、理研、大阪帝国大(現大阪大)、京都帝国大(現京都大)のサイクロトロンを破壊せよ」
 米陸軍省が原子核の研究装置である円形加速器「サイクロトロン」を原爆製造用と誤認し、連合国軍総司令部(GHQ)に破壊命令を出したためだ。
 サイクロトロンは電磁石で作った円形の軌道で電気を帯びた粒子を加速し、実験試料にぶつけて核分裂を起こしたり、放射性同位体を作ったりできる。当時の核物理学の最先端装置だった。
 理研には大小2台のサイクロトロンがあった。小型は仁科芳雄博士が12年に世界で2番目、国内で初めて製作したものだ。大型は当時の世界最大級で、重さは磁石だけで200トンもあり、6年かけて18年末に完成した。
 仁科が日本陸軍から依頼された原爆開発の「ニ号研究」では、小型を使ってウラン濃縮の成否を確認し、大型の開発計画も盛り込まれたが、いずれも原爆を製造する装置ではなかった。


 仁科は戦後、GHQと交渉し、放射性同位体を作って生物学や医学への応用研究に使う許可を得ていた。新たな時代に向け、希望をつなぐ装置のはずだった。それが一転して破壊される事態に直面した。
 仁科が将兵に猛然と抗議する様子を米ライフ誌が伝えている。


「これは私の研究生活10年分の成果である。原爆とは無関係だ」。壊さないでくれと嘆願する傍らでは妻と女性秘書がすすり泣いていた。
 仁科は東京・有楽町のGHQ本部にも乗り込み「なぜ破壊するのか。米政府は科学者に意見聴取したか」と問いただした。科学者なら装置の価値を理解し、壊せというはずがない。彼らの意見を確認するまで、破壊作業を停止させるためだった。だが回答は「ワシントンの科学者も承知した上での決定だ」。
 仁科は言葉を失う。「科学者も含めて米国全国民の誤謬(ごびゅう)であるため、もはや絶望なることを知り退出した」。後の書簡にこう記したが、米側の回答は虚偽だった。
 将兵らはアセチレンバーナーで焼き切るなどしてサイクロトロンを破壊。数百トンもの残骸をクレーンで巨大なトレーラーに積み込んで運び出し、東京湾に沈めた。科学に対する理不尽で侮辱的な行為は、日本の敗戦を象徴するものだった。
 全ての破壊が終わった日の晩。次男の浩二郎氏(83)は「まるでお通夜のようで、憔悴(しょうすい)した表情の父を前に、誰も一言も話せず重苦しい雰囲気が広がった」と振り返る。

 ニ号研究の分室が置かれた大阪大でも同様の光景が繰り広げられた。当時学生だった福井崇時(しゅうじ)名古屋大名誉教授(91)は壁を壊すブルドーザーを見て、度肝を抜かれた。「やられたと思った。悲しかったですよ。放心状態だった」


 理研の大型サイクロトロンは仁科が心血を注いで作った。開戦で海外からの学術情報が途絶し、物資不足で製作が困難を極める中で、サイクロトロンの発明者で親交があった米物理学者のローレンス博士の元に弟子を派遣。博士は敵国側でありながら協力した。
 仁科は破壊の翌年、博士に宛てた手紙で、こう心情を吐露している。
 「あなたが助けてくれて建設したサイクロトロンは、不幸なことに太平洋の底深く永遠に消えてしまった。それは、ただ破壊されるために作られたといえるかもしれない。戦争のせいで、研究には全く使うことができなかったのだから」
 失意の仁科はその後、所長として理研の再建に追われ、研究生活に戻ることなく世を去った。

非難と謝罪

科学史に汚点、行方は謎

 科学史に汚点を残したサイクロトロンの破壊は、なぜ起きたのか。関係資料によると、米国の原爆開発計画に関わった陸軍のブリット少佐が原爆開発装置と思い込み、パターソン陸軍長官の承認を得ずに独走。GHQに対して破壊命令を出すよう働き掛けたことが原因だった。
 破壊が報じられると、米国の科学者は「人類に対する犯罪だ」「理不尽な愚行」などと強く非難。仁科芳雄博士は、米国の科学者も承知の上だとしたGHQの説明が嘘だったことを知る。
 暴挙に対する怒りの声は大きく広がり、米マサチューセッツ工科大の科学者らは陸軍長官に抗議文を送付。終戦直後、仁科にサイクロトロンの使用許可を出すよう勧告した米物理学者は少佐の罷免を求めた。


 こうした事態を受け長官は「陸軍省の軽率な行動を遺憾とする」との声明を発表。破壊命令が誤りだったことや、科学者の意見を聞くべきだったことを認め、謝罪した。
 連合軍はドイツで物理学者を逮捕して尋問したが、サイクロトロンは破壊しなかった。米国の終戦処理における失態ともいえる破壊事件は、日本の原子核研究に深い傷跡を残した。

 破壊された計4台のサイクロトロンは海に沈められたとされるが、その行方は不明な点も多い。理研の残骸が捨てられたのは東京湾で、米ライフ誌は「水深4千フィート(約1200メートル)の海底」と伝えた。米国立公文書館の資料から近年、場所は横浜沖と分かったが、それ以上の情報はない。
 引き揚げることはできないのか。そんな話が関係者の間でしばしば出るが、多額の費用と大掛かりな捜索が必要だ。仁科の関連資料を整理している理研の富田悟氏(63)は「引き揚げれば科学史上、非常に価値のある資料になるが、実現は難しい」と話す。
 大阪大の投棄場所は大阪湾とされるが、詳細は不明だ。撤去を目撃した福井崇時氏によると、占領軍がいた大阪市住吉区杉本の市立大学運動場に運ばれたが、その後は分からないという。
 京大の行方は全く分からない。琵琶湖に捨てたとの俗説には否定的な見方が多く、大阪湾ともいわれるが、はっきりしない。米国は破壊の翌年、GHQに聞き取りをして追跡調査したが、突き止められなかった。


 戦後、荒勝文策教授に師事した池上栄胤(ひでつぐ)大阪大名誉教授(85)は「昭和32年ごろ、オーストラリアの大学教授が京大を訪れ、『自分の所に京大のサイクロトロンの磁石がある』と話したと先輩から聞いた」と証言する。該当する豪州の大学に問い合わせたが、手掛かりは得られなかった。真相は謎のままだ。
 立命館大の中尾麻伊香専門研究員は大学院生時代から約9年間、京大のサイクロトロンと核開発史を研究してきた。「部品の一部が残っていると聞いたことをきっかけに、戦時中の原爆研究を知った。調査するうちに知られざる科学者の思いや情熱に触れ、興味深いと感じた。失われた磁石の行方も探りたい」と話す。
 破壊されたサイクロトロンの関連資料を探し、継承する努力は今も続く。京大では今年、新たに図面が見つかった。政池明京大名誉教授(80)は「日本の原子核物理の基礎となった図面だ。科学史を調べる上で非常に意義がある」。仁科の執務室で発見された図面は、現在も関係者が大切に保管している。仁科記念財団の矢野安重常務理事(67)は「きちんと後世に伝えていかなくては。それが私たちの責任だ」と話した。

断絶と再建

戦後、世界水準へ発展

 サイクロトロンの破壊で実験が断絶した日本の核物理学。復活の契機となったのは、その発明でノーベル賞を受賞したローレンス博士の来日だった。昭和26年5月に理研を訪ねると、破壊された小型サイクロトロンの予備の磁石が放置されているのを見て「これですぐに再建すべきだ」と提案。仁科芳雄博士の死後4カ月のことだった。


 意気消沈していた研究者は奮い立ち、大阪大、京都大でも次々にサイクロトロンが再建された。だが世界では、より高いエネルギーを得られるシンクロトロンという新たな加速器の時代に入っていた。出遅れた日本は30年になって東大が原子核研究所を創設、シンクロトロンを建設して本格的な素粒子実験を始める。創設時はサイクロトロンを建設した阪大の菊池正士教授を所長に招き、後にノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士も尽力した。
 高エネルギー加速器研究機構は平成13年、加速器「Bファクトリー」(茨城県つくば市)で物質の起源を説明する理論を実証し、提唱者の小林誠、益川敏英両氏のノーベル賞につなげた。さらに高性能の加速器が年内にも完成予定で、世界的に注目を集める。
 高エネ研の菊谷英司史料室長(62)は「今や日本は、次世代加速器の国際リニアコライダー(ILC)の建設候補地になるほど世界での存在感を得た。戦前から加速器を作ってきた先人の知識と経験が土台になっている」と話す。
 九州大の森田浩介教授(58)は16年、理研の加速器で113番目の元素を発見した。日本が初めて見つけた新元素として認定が期待され、元素名は仁科にちなむ「ニシナニウム」も候補の一つに挙がる。
 森田氏は「自分たちで世界最高の実験装置を作り、成果を出すのが仁科先生の教えだ。その精神は脈々と受け継がれている」と話す。


 東京都文京区の理研跡地には、戦後最初に再建された小型サイクロトロンの磁石がひっそりと置かれている。傍らの碑文は、物理学者たちの奮闘の歴史を今に伝える。

 京都帝大・荒勝教授

「研究の芽摘まれ残念」

 サイクロトロンの破壊は京都帝国大でも同時に執行された。平成22年に発見された荒勝(あらかつ)文策(ぶんさく)教授の日誌には、GHQに抗議する様子が記されている。
 「研究設備の破壊撤収は必要無きに非(あら)ずや。これ等(ら)は全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のものなり」
 しかし、占領軍は建設中だったサイクロトロンの80トンの磁石を持ち去った。「惨憺(さんたん)たる光景であった」と荒勝氏は嘆いた。
 大学1年だった竹腰秀邦京大名誉教授(88)が当時を振り返る。
 「外国人が乗り込んできたのが怖くて、物理教室には近寄らないようにしていた。実験で使う部屋の一角にサイクロトロンの大きな磁石が置かれていたが、占領軍が去った後、その場所は空になっていた。ああ、日本ではこういう研究をやってはいけないのかと、半ば諦めのような気持ちを抱いた」
 占領軍は科学者の生命線である実験ノートの提出も命じた。立ち会った占領軍通訳の回想記によると、この要求に対し荒勝氏は感情の高ぶりを抑え切れず、声を詰まらせながら「没収は不当である」と強く抗議した。


 荒勝氏は戦前、台北帝国大(現台湾大)で加速器による原子核実験をアジアで初めて行った先駆者だ。壊されたサイクロトロンは、日本海軍から依頼された原爆開発の「F研究」に組み込まれたが、本来は基礎研究が目的だった。
 「日本の地から原子核研究の芽をつみ取られる事は誠に残念である」。破壊の翌月の日誌にある荒勝氏の言葉だ。
 「大変な苦労をして作っていたものが、核兵器のためと誤解され、壊されてしまった。先生の心中はいかばかりだったか」と竹腰氏は話す。
 終戦後の昭和24年、京大の湯川秀樹博士が中間子論で日本人初のノーベル賞を受賞。敗戦とサイクロトロン破壊で打ち砕かれた日本の核物理学に、一筋の光明が差し込んだ。
 破壊事件に心を痛めた占領軍通訳はその後、再び来日し、荒勝氏に心境を改めて尋ねている。回想記によると、湯川と親交があった荒勝氏は「後輩がノーベル賞を受賞したことで全てが埋め合わされた」と、きっぱり語ったという。

高エネ研特別栄誉教授 仁科記念財団理事長・小林誠氏(71)に聞く

「科学者、先端研究に立ち会う使命」

 --戦時中の日本の原爆研究をどう見るか
 「核分裂の連鎖反応からエネルギーを取り出せば、発電用原子炉や原爆などの用途が生まれる。軍部は原爆を想定していたが、理研や京都帝大で行われたのは連鎖反応を起こす前の段階の基礎研究だ。日本の原子核研究は戦前、非常に高いレベルにあったが、原爆研究はウラン濃縮すら成功しなかった。非常にプリミティブ(幼稚)なレベルだった」


--開発が成功する可能性はあったか
 「無理だった。戦争で物資も人材もなかった。ウラン濃縮も、理研の熱拡散法は装置の素材に問題があったし、京大の遠心分離法も技術的に未熟だった。実際に原爆を作ってそれを使う状況に陥らなかったという意味では、開発できなくてよかったと思う」

 --科学者が兵器開発に参加したことの是非は
 「軍事利用される可能性があるから断るという単純な問題ではない。画期的な新原理や技術について、研究を軍だけが進めるのは危険だ。最先端の知見を人類で共有するためには、科学者が立ち会う必要がある」

 --仮に自身が兵器開発を依頼されたらどうするか
 「既存の知識や技術で兵器を開発しろというなら、可能な限りノーと答える。新たな科学的真理を明らかにする研究なら判断は難しい。断れば科学者の使命から逃げることにもなる。研究の科学的意味しだいだ」

 --戦後、GHQはサイクロトロンを破壊した
 「とんでもない暴挙だった。サイクロトロンは兵器の研究装置ではない。原子核のほか生物や放射性同位体など、幅広い研究に役立つ純粋な科学研究装置だ。日本の原子核研究は一気に停滞し、後々まで尾を引いた」

 --原爆研究に関わった科学者の多くは戦後、核廃絶運動などに取り組んだ
 「原爆投下で起きた悲惨な状況から、強い衝撃を受けて意識が変わった。エネルギーの大きさは当然、分かっていただろうが、どんなことを引き起こすか考える余裕がなかったのかもしれない」

この企画は長内洋介、伊藤壽一郎、黒田悠希が担当しました。)

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